恋、あかく

朝の静かな水路を、わたしの乗った舟は進む。この街には、網目のように水路が広がっている。船頭はその全てを覚えているのだと、身の丈より長い棹を操りながら、舳先で老人が言った。
右には、柳の並木。左には、水路に迫り出した露台のある、古い家が並び立つ。大きく婉曲した朱塗りの橋をくぐったところで、目的の家が見えた。露台に、紅い紐が結ばれている。
ふと見上げると、二階の格子窓からわたしを見下ろす目があった。

みかよ
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この街では舟は立派な交通手段だ。住宅の合間を水路がぬっていく。
「おはよう」
空から爽やかな声が降ってきた。
「おはよう」
彼の顔はこの街に似合わない。どこかの欧州あたりのハーフらしい。違和感を拭えない。
しかしその違和感と、彼本人への違和感はまた微妙に違う。
「こんな朝からバイト?」
「うん」
「じゃあ遊びいこうかな」
彼の声を背中で聞いた。

「恋だよ、それ」
友人は笑いながら言った。

yuzu0905
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ばいと。
未だに聞き慣れない言葉を繰り返す。彼は不思議な片仮名言葉をたくさん知っていた。話せば話すほど、見知らぬ世界の淵に立つような心地がする。
違和を感じる一方で、ぽっかりと暗い深淵へ一思いにこの身を躍らせたくなる。この危うげな感情を、人は恋と呼ぶのだろうか。

船頭が振り返って、どうする、と目配せで尋ねた。わたしの働く茶屋はここから少し遠い。わざわざ回り道をしてもらい、彼の家の側を通ったのだ。

lalalacco
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再び見上げた格子窓に、もはや彼の姿はない。わたしが小さく首を振ると、船頭は何も言わずに舳先の向きを変えた。
朱塗りの橋が忽ち見えなくなる。後悔に似た想いが、不意に込み上げた。
まだ時間はあったのだ。もう少し彼と話せばよかった。
だけど──

遊びにいこうかな、と彼は言った。本当に来てくれるのだろうか。
舟は一路、茶屋へと進む。

misato
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しばらく進むと両側に桜並木が続く、他よりも幅が広い水路に合流する。2つ目の舟着場の階段を登れば、すぐそこに茶屋がある。
店先の長椅子に淡く積もる桜を見て、この国の桜が大好きだと彼が言っていたのを思い出した。

彼が座ることを躊躇うかもしれないと思い、出来るだけ優しく拾い集める。
ふと、恥ずかしさが込上げてきた。

昼過ぎに茶屋に来た彼と、目を合わせることができなかった。

ダンボール箱
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彼は気に留める様子もなく、常連客幾人かと世間話に花を咲かせていたけれど、三杯目の蕎麦茶を空けるとわたしの前掛を少し引いて、「それじゃあまた」と席を立った。獣の皮革で拵えたと言う、ぬらりと艶めく札入れにもまた、あの紅い紐が結ばれている。何かの願掛けか、符丁のようなものかしら、と想像してみるものの、少しばかり知るのが怖い気もして尋ねることができずにいた。

あの人のいない茶屋は、すっかりいつもの場所。

金春こんぺい燈
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彼としっかり話せなかったことに落胆しながらも、周りに気付かれなかったことを内心安堵していた。

何十人もの人が行ったり来たりした。異国から、近所から、来た場所は違えど、皆一様に客であることは変わりなく笑顔で働いた。

昼過ぎの混雑する時間が過ぎた頃、店主がちょいちょいと手を招いた。聞けば、彼から預かり物があると言う。小包をこっそり覗くと桃色のペンダントと折りたたまれた映画のチケットが入っていた。

みみぃ
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夕方になって、茶屋を出た。
行きと同じように舟に乗り込み、小包の中の首飾りを掌の上にそっと取り出す。見覚えのある紅い紐に通されたそれは、夕日を浴びて淡く煌めいている。

「あの角を左へ」

船頭に伝えながら、小包に入れたままのチケットのことを思い返していた。
若い男女の描かれた紙切れはとても古びていて、使えそうにはない。裏面には彼の字で、ただ一言が書き添えられていた。それを思い出すと、胸が疼いた。

りせ
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紅い糸の先には君がいて欲しい、と。

朱塗りの橋が見えてきた。
水路に張り出した露台に彼がいた。腕には紅い紐が揺れている。
それを目にした瞬間に、私の心は決まっていた。僅かな躊躇いは霧散し、紅い紐のペンダントを身に着ける。
「船頭さん、ここで」
船頭は頷くと、露台の側で舟を停めた。
彼の手を取り露台へ上がる。
夕日に紅く照る水路で、古いチケットに描かれた二人の様に、私達は抱き合った。

えす
- 完 -

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